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Oui! Friends..

As you know, "Pianist/Composer/Surgeon"

日常生活の裂け目

 昨日,横浜出張から戻ってまいりました.今回は,予期せぬことが多くて帰りの飛行機もキャンセルして新幹線で戻ってきたんですね.そんな中で色々考えることがあったので,まず書きますね.(また別な記事で横浜報告は書きます.今回から,自分があれこれ考えている,くだらない長い文章は「think」というカテゴリーにしました.興味のない方は読み飛ばしてくださいねぇ)
 そもそも,この横浜行きは飛行機の乗り遅れというところから始まりました.これだけ情報化社会になってくると,移動時間が短ければ異なる場所に同時存在するというか,そんな感覚を持つことも不可能ではないですよね.飛行機あるいは新幹線を使って1時間くらいで別な場所に移動すると,ほぼ今の生活から連続して別な場所で時間を過ごすように感じられます.今回,横浜行きに飛行機を選んだのも,ぱーっと行ってすぐに現地で活動し,終わったらさーっと帰って来ようという,仕事も含めた今の生活を重視しての計画でした.
 それが,予期せぬ事態によって急遽変更を余儀なくされたわけです.学会出張そのものを取りやめるほどではないものの,自分にとっては不測の事態でした.人間,想定外のことが起きると弱いもので,精神的にも肉体的にもストレスを抱えた状態で新幹線に乗りました.岡山から新横浜までの約3時間は,飛行機での1時間みたいにチャンネルを切り替えるようなわけにはいきません.例によって名古屋あたりまでは爆睡してましたが,その後新横浜に着くまでは徐々に別な空間へ移行していくように感じられました.
 新横浜でJR横浜線に乗り換えて学会場(パシフィコ横浜)のある桜木町方面へ向かったんですが,新幹線とは異なり横浜線というのは地域の人たちの生活に密着した路線なんですね.学校帰りの中学生がいたり,これから街に出ようかという若い女性,シートに座り込んでいるお年寄り,いわゆる普通の生活がそこにはありました.ただ,そういう列車の中にビジネス出張用の荷物を持った自分がいるという感覚がどうにも持てなくて妙な違和感があったんですね.
 普通だったら,いつもの自分をそのまま現地へ持ってきて「よーし,行ったるで!」みたいな勢いがあるか,あるいはいつもの日常からは解き放たれて「よーし,楽しむぞ!」みたいなノリがあるんですね.だけど,今回は違いました.後ろ髪を引かれるような思いで来ているのに加えて,予定外の行動になってしまったために,いつもの自分と今の自分との連続性がうまく把握出来ませんでした.いわゆる心ここにあらずという状態で,今自分がここ(横浜)に存在している実感を持つことができなかったのです.
 もちろんですが,廻りを見渡してみて誰も自分のことを知っている人はいません.こういう感覚を過去に感じたことがあるのを思い出しました.学生のころ,人混みの中で自分が自分であることを意識できなくなるような錯覚に何度か襲われたことがあります.沢山の人の中で,あの人がもしかして自分であってもそう大きな問題ではないんじゃないかとか...(そのころ,実存主義哲学の本を読んでいて,自分がそこにいる(現実存在する)ことに関して色々考えていたんですね)
 以前にも書きましたが,そのことを確かめたくて学生時代にヨーロッパを旅しました.ベルリンの壁が崩壊する前,社会主義国だった頃の東欧諸国に一人で行ったのですが,その時の体験を思い出したのです.チェコスロバキア(現在はチェコスロバキアに分離)の首都プラハの地下鉄に乗っていたときのことです.廻りに東洋人は誰一人おらず,車内にはチェコ人しかいませんでした.東欧を旅して1週間程度経過しており,随分長い間日本語を喋っていませんでした.そうすると,だんだん自分が日本人であり,今プラハにいるという感覚がぼやけてくるんですね.誰も自分のことを認めてくれない,何の関係性もない,そういうところでは自分が自分であろうとする意識を持つのは至極困難です.
 ふと,車内の窓ガラスを見ると,青い瞳,金髪の西欧人に混じって,背の低い黒髪の自分が映っているのが見えました.その時に,「あ!今,ここに自分がいる!」と思いました.自分の目で見た現実の世界では自分がここにいる感覚を持つことができないのに,窓ガラスに映った自分の姿を見てそう思ったわけです.自分を他者の目で見て,やっと自分の存在を認識できる,かなり自分の自我意識が弱っているなあと感じました.
 その後,ハンガリーの首都ブダペストに行ったのですが,だんだんと自分の中にストレスが蓄積されてきました.一人旅の孤独感もあったと思いますが,自分はここにいる!と叫びたくなるような気分でした.ちょうどドナウ川のほとりを歩いていたときに雨が降ってきました.僕はなぜか,有名なミュージカル映画雨に唄えば」の劇中曲(ジーン・ケリーが土砂降りの雨の中でタップを踊りながら歌うシーン)を一人で歌っていました.「I'm singing in the rain...」廻りにいたハンガリー人は,妙な東洋人がいるなあと思ったでしょうね(笑).自分でもどうしてこんな歌を歌っているのかわからないまま,何故か知らないけどだんだんと嬉しくなってきて,傘も差さずに歌いながらスキップしてました.まるで映画のワンシーンのように(笑).
 この時に思ったんですね.自分から何か行動したり表現したりしない限り,自分が今ここにいるということを意識できないって..遠く離れたハンガリーの地で,歌いながらスキップしている自分,それは僕の中でそこにいる自分として実感できたのです.けっして,窓ガラスに映った自分ではなく..
 かなり長くなりましたね(笑).(岡山弁で言うと,「こんな,やっちもねえことばあ,考えよんか!(こんな,どうでもいいことばかり,考えているのか!)」と怒られそうですね(スンマセン).ただ,僕の感じた感覚をきちんと伝えるには,これくらいのバックグラウンドを説明しないといけないんですよ.許してくだされ!)
 で,横浜の僕に戻ります.外科医という職業柄,いつも他人(患者さんや他の医療スタッフ)から必要とされる時間を過ごしていて,自分というものが「外科医」であることを疑う余地は全くありません.逆に,そういう職業人としての自分から離れたいと思っているときにも,嫌と言うほど「外科医」であることを意識させられるような毎日です.ただ,そうはいっても,恐らく自分としてはそういう「外科医」としてのアイデンティティーに依拠しているはずです.だからこそ,想定外の事態があって予定を変更し,いきなり横浜まで来たときに,いつもの自分との連続性を意識できず呆然としてしまったんだろうと思ったわけです.
 プラハを旅していたときの自分と同様,いつもの場所からぽーんと放り出されてみると,案外自分は弱かったなあ..というのが本音ですね(笑).もっと人間力を鍛えないといけないなとも思いました.そんなこんなで横浜出張を終え,昨日職場へ復帰し留守中にあった出来事にも色々対応したんですね.その中で,徐々に横浜で感じた違和感はなくなっていきました.それは,「いつもの自分」に戻ったからではなく,予期せぬ事態に対して現実的に対処したからなんだと思います.
 どういう場面においても,目前の現実を素直に受け止め,またそれに対して何らかのリアクションをする,こういう作業をしていれば,自分が今ここにいるかどうかなんて意識しなくなります.そういう瞬間こそが,きちんと生きているという証明になるとも思いますし,恐らく日常というのは,そんな瞬間の積み重ねなんでしょう.逆に,今回みたいに日常生活の裂け目のような時間を経験したからこそ,今の自分の日常が客観的に見えたんだとも思いました.