昨日、母の初七日法要を無事済ませました。色々な方々からお悔やみのお言葉をいただき、本当にありがとうございました。同様の経験をされた方のメッセージには大変慰められました。この場を借りて、改めて御礼を申し上げます。
さて、あまり湿っぽい話が続いてもいけないので、この件に関しては今回でひとまずの区切りを。今現在介護をしている方、あるいは将来的に介護をする必要がある方に少しでも参考になればと思い、僕の経験談を記します。
上の写真は、10年間母がお世話になっていたグループホームの介護スタッフさん達。実は14年前に母はアルツハイマー型認知症を発症した。息子の僕が言うのもおこがましいけど、非常に聡明な女性であっただけに、短期記憶の欠落や徘徊といった認知症の初期症状が出現した時には俄に信じ難い思いだった。当時は今ほど認知症に対する社会的認識が広まっておらず、悪い言葉で言えば「ボケ」の一言で片付けられていた。
とりあえず何とか自宅で介護しようと考え、自分の仕事と両立できる条件で転居をしたものの、24時間ぶっ通しで介護をするわけにもいかず、どうしても小さな部屋に閉じ込めておくような管理をせざるを得なくなった。当時は大学病院勤めをしていたので、これを機会に退職し外科医としては一線を退かないといけないな・・とも思いつめてた。
そんな時に、お世話になっていた先輩の病院から助言をいただいた。最近はグループホームなる施設ができ始めていて、いい環境で認知症患者さんのサポートができるはずと。(当時は認知症に対するグループホームが開設され始めて間もない時期だった)僕も医者の端くれなので、いわゆる老健施設というものの実態は知っていた。どちらかと言うと医療をする側の効率から考えられたもので、母を預けるにはかなりの心理的抵抗があった。なので、半信半疑、グループホームの見学に出かけてみた。
そこは老人が横たわるベッドがずらっと並んでいるような施設ではなく、広い一軒家で皆が共同生活をするというスタイル。自分専用の個室があり、プライバシーも十分配慮されている。調子がよければ明るい日差しの降り注ぐダイニングルームへ出てきて過ごすこともできる。もちろん、こちらが希望すれば自宅に戻ったり外出することも可能。ああ、ここなら何とかやっていけるかも・・と思った。
当時は自宅で介護できないなんて、姥捨て山へ親を捨てるようなものだ・・と色眼鏡で見られることも多々あった。そして、母に対して十分な世話ができなかったのではないかと自責の念にかられることもあった。色々悩んだあげくに、やはり自分ひとりで抱え込むべきではなく、母のためにもグループホームにお願いしようと決心した。
それからは大学病院の勤務を終えてグループホームに通うという生活が始まった。当初母は何故自分が自宅ではない場所にいるのかを理解できず、自分は息子のためにこの場(グループホーム)で夜勤をしているのだと思い込んでいた。所属医局である岡山大学第二外科で国内初の生体肺移植手術が行われてから2年経過しており、新聞記事の切り抜きを手に持って、僕が手術や重症患者さんの管理で忙しくしているから自分が夜勤をするのは当然と。その言葉を聞いたときには、思わず目頭が熱くなった。既に認知症が進んでいる状況で現実とは異なる理解ではあっても、僕のことをそこまで心配してくれてるとは・・
ほどなくして、公の音楽活動は一旦休止した。こんな時に楽しそうに演奏している場合じゃないだろうと。ただ、何らかの形で音楽には関わっていたい・・・そう思っていた頃、岡山ジャズフェスのオリジナルメンバーに出会った。グループホームでの生活が少し安定していたのもあって、ボランティア活動を始めることにした。自分で演奏できなくても、音楽の場をサポートすることはできるだろうと考えて。
以後のジャズフェスに関しては皆さんご存知のとおり。しかし、安定していた時期もそんなに長くは続かず、母の症状はどんどん悪化し自力歩行もできなくなっていった。転倒して骨折、手術のための入院などを繰り返すようになり、当初のグループホームでは対応できなくなった。その時に、再び手を差し伸べてくれたのは先輩の病院だった。ちょうど新たなグループホームを開設することになり、重度の障害があっても何とか受け入れ可能と。
写真の一番右におられるのがその管理者の方。元々看護師として先輩の病院で働いておられ、新たに介護中心の仕事を始めるところだった。最初に出会った時、「息子さんではあるけど介護の進め方に関しては医者として色々意見してくださいね!」と明るい表情で話してくれた。他の介護スタッフも頑張りますよと快く言ってもらい、次のグループホームに引っ越して第二の介護生活が始まった。
これが10年前のこと。スペース的にはより広くリハビリも可能な環境になり、介護スタッフの手厚いサポートもあって、車椅子生活を余儀なくされていた母が、再び歩行器を使って歩けるようになった。以後も変わらずサポートをしていただき、スタッフさんはほぼ家族も同然のような関係に。病状としては比較的落ち着いた日々が続き、僕自身は5年前からピアニストとして演奏活動を再開。また、14年間外科医の仕事もずっとやり続けることができたのは、この介護スタッフさん達のおかげだと思ってる。
本葬儀の三日後、母の部屋を整理するために伺ったところ、スタッフの皆さんは目に涙を浮かべて出迎えてくれた。片付けがひととおり済んで、グループホーム内で撮影した昔の写真を皆で眺めていたら、ちょうど母が歩行器で歩いている姿を見つけた。ああ、これこれ!もう一度歩けるようになったんだよね!とお互いに笑顔で話し、その後に僕が記念にとスタッフさんとの写真撮影をお願いした。母が亡くなったばかりでいささか不謹慎ではあるけど、皆が笑顔で写真に収まっているのはこういう理由です。在りし日の母を思い出して皆が微笑んだ瞬間。今後は、お世話になったグループホームにせめてもの恩返しができればと、敬老会行事などで慰問ピアノ演奏をしていけたらと思ってる。
他にも色々書きたいことはあるけど、最後にひとつだけ。認知症に限らず、病気を抱えている方の看護・介護の大変さは経験してみないとわからない。当事者一人だけではどうにもならないところも沢山ある。そんなとき、自分一人で抱え込まずに誰かに相談して、何らかのサポートを受けること。なかなか冷静な判断はできないものだし、決して恥ずかしいことじゃない。もちろん、当事者としてできるだけのことをするんだけど、家族だけではなく医療・看護・介護・ソーシャルワーカーなど、様々な職種が協力しあうことで、その人にとって最良のケアができるはず。病に苦しむ患者さんを皆で協力してサポートしていくことがいかに大切なものであるか、母は身を持って教えてくれたんだと思ってます。