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Oui! Friends..

As you know, "Pianist/Composer/Surgeon"

あぜ道  


 今日は本職の仕事でちょっといいことがあった。昇進したとかそういうのじゃなくて(笑)、自分の腕前が少し上がったかな?と思えるような瞬間があって。傍から見ててもよくわからないだろうけど。
 困難なことでも地道に取り組んでいると、ある時ふっと「越えたな」って感じられるときがある。それまでは高い壁にしか思えなかったことが、そうでもなくなる。でも、それも束の間。次に越えるべき壁が新たに見えてくるから。
 この先も、この繰り返しをひたすら続けていくんだろうなあって思う。真にプロフェッショナルであるために。

レンゲ草  


 5月に入って、少しずつ自分が回復してきているのがわかる。身体の疲れがようやくとれてきているのもあるんだけど、音楽を聴きたい、本も読みたいっていう気持ちが湧いてきた。もちろん、日々の仕事はきちんとやってるし、ピアノも欠かさず弾いてる。ただ、何かに心が打ち震えたり、突き動かされたりするような感じはしばらくなかったかなあって思う。
 今にして思えば、英語で言うexhaustedな状態だったんだろう。精神的にも肉体的にも、これまで貯めこんだものを全部使い果たして。やはり、自分の力を過信して、エネルギーをいたずらに浪費するだけではダメ。レンゲ草は、秋の収穫が終わった後から、長い冬を越して春に花が咲く。そして、その根が今度は田植え前の貴重な栄養分となる。そんなふうに、長い時間をかけてじっくりと準備をしていかねば。目先のことにとらわれず。

忙中閑あり  


 4月は何とかの不養生で体調を崩してしまったから、GW中はできるだけおとなしくしている。何かやらないと・・って思う気持ちを少し緩めてみるだけで、これまであまり目に入らなかったようなことが見えてくるような気がしている。
 上の写真は、休み中の日直業務が終わってから、西川キャンドルナイトに立ち寄ったときのもの。川面に映るキャンドルの灯りを眺めながら、何かにつけて少し急ぎすぎていたのかなあと振り返る。
 もちろん、いつまでものんびりしているわけにはいかないし、必要な決断は下していかないといけない。でも、一歩前に踏み出す前に、自分の中にちょっとした余裕を持つことも大事。キャンドルの仄かな灯りが消える前に・・と急かされるのではなく、揺らめく灯りが続くそのわずかな時間を楽しめるような。

地蔵尊  


 昨日で東日本大震災から11ヶ月。ようやく復興庁が設置され、これからが被災地再生の正念場。組織的には色々な問題があるかもしれないが、目的はひとつ。被災地が直面する課題をひとつひとつ解決していって欲しいと心から願う。
 被災地では、なおも不明者の捜索が続く。もう、こんなに時間が経っているのにと思われるかもしれない。でも、あの日からずっと時間が止まっている人にとっては、この11ヶ月間は如何ほど辛いものだっただろうか。
 丸善一つの本を手にとった。今の僕は多くを語る立場にない。でも、きちんとしたジャーナリズムによって広く伝えていって欲しいとも思う。
 大阪のミナミ、とある街を歩いていて、ふと目に留まった地蔵尊。ウィキによれば、町外れや辻に「町の結界の守護神」として建てられたもの。街中で何気なく見かける地蔵尊の前で鎮魂のために祈るとともに、この世とあの世との結界を通じて、失われた人々と再び黄泉の国で会えるような気がしてならない。

菩提寺  


 昨日、実家に戻る途中に菩提寺の前を通りかかった。震災から半年。鎮魂の意味もあって、お寺さんにお参りをして帰ろうかと思い立ち、車を停めた。ちょうど、東から西へ風が吹き抜け、奉納旗が一斉にはためく。一応檀家ではあるけれど、格別に信心深いわけでもない。でも、目に鮮やかな紅の旗が奇しくも僕の方へ整列し、本堂へ誘うが如く何かを訴えかけてくる。勿論ただの偶然だろうし、特別な意味があるはずはないけれど、ごく自然に眼を閉じて祈る自分がいた。

ウィンドウを降ろして


 ようやく金曜日。8月になっても忙しさは相変わらず、気がついたら辺りはすっかり暗くなっている。夜になって頬を撫でる涼しい風。車内の温度計は29度を指しているけど、数字以上に心地良い。
 エアコンを切り、両サイドとも車のウインドウを降ろす。できるだけ、広くて直線の道を帰り道に選び、発進する。
 いつもなら外部と隔絶された空間に、様々な喧騒が侵入してくる。遠くでラジオが鳴っているよう。それらを振り切るようにアクセルを踏み、自分もその喧騒の一部分となっていく。

土手沿いに


 自慢じゃないけど、子供の頃思いっきり自然の溢れる中で育った割には、動植物にはとんと疎い。花の名前なんか全然知らないし、一度聞いてもすぐに忘れる。たぶん、あまりにも当たり前のものとして自分の中で認識しているんだろう。手を伸ばせばいつでもそこにあるものだったから。
 だけど、今となっては昔懐かしい風景など探してもなかなか見当たらない。そういった心象風景がかつてあったことすら忘れているくらい。
 毎朝時間に追われて車で駆け抜ける通勤路に、春の野草が咲いていた。小雨の中で黄色い花弁が風に揺れているのを見て、ある懐かしいイメージが浮かんできた。それだけで、何かほっとする。自分にとっての原風景の一部分が、そこにあったのかもしれない。

ひとやすみするのも


 日々様々なプレッシャーの中で生きていると、元々どうしてこんな状況になってしまったのか、自分でもわからなくなってくる。世の中には、今自分がいる場所とは違う世界がちゃんと存在しているのに、もうここしかないという閉塞感に襲われるようになる。半ば、追い詰められたような気持ちで。
 でも、人はそうやって歳を重ねていくもの。様々な困難に出会いつつも。これから過ごしていく長い時間を考えれば、少しひとやすみしてみるのも悪くない。時間がないって思ってるのは、もしかして自分の思い込みなのかもしれないのだから。