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As you know, "Pianist/Composer/Surgeon"

佐村河内守・交響曲第一番「HIROSHIMA」  


 OJFのイベントや自分のライブもあって、自分が関係するしないに関わらず、純粋にいいなと思う音楽を聴く機会に乏しかった。その中で出会った珠玉の作品がこれ、佐村河内守(さむらごうち・まもる)作曲の交響曲第一番「HIROSHIMA」。
 今の時代に大げさな交響曲?それもクラシックなんて?って大概はそう思われるかもしれない。もっと時代に即した表現方法はあるはずだし、商業的な成功も考えると明らかにそういった手段は得策ではない。しかし、彼はそうしなかった、いやできなかった。
 独学で音楽理論を学び自ら交響曲を作り始める中で、音楽家として最も大事な聴覚を彼は失い始めた。まるで、ベートーヴェンのように。それに加えて、抑うつ神経症や不安神経症に苦しみながら、これまで作曲した作品を全て捨て、新たな交響曲に取り組んだ。それがこの「HIROSHIMA」だ。
 時代は常に前に進む、それはある種の幻想だと思う。次の世代が前の世代を乗り越えられるはずだという考えは資本主義的なオプティミズムだろうし、越えられないからこそ、今の時代にまで語り継がれているという側面を忘れてはならない。「HIROSHIMA」を聴いてまるでマーラーみたいだと言うのはたやすい。しかし、自分の求めるべき音楽を突き詰めていったまさにその地点に、時空を越えてマーラーが存在していたとしたならば、表現という頂でただ両者が出会ったというべきではないかと思う。
 ギミック的な不協和音の連続ではなく、作曲者の心の叫びとも言うべき陰鬱な旋律が続く中で、第3楽章の後半は全ての人に救いの手を差し伸べているように思える。まるで、作曲者自身が救われたいと思っているかの如く。同時代の日本人がこれほどの交響曲を作曲したことに誇りを感じるとともに、指揮者の大友直人が言うように、いつかこの曲をベルリン・フィルが演奏して全世界に発信してくれたらと夢想する。

<追記>
2014年2月5日、佐村河内守の作品はゴーストライターの手によるものだったことが発覚しました。大変残念なことだと思いますが、これによって作品そのものの価値が貶められるものではないと僕は考えています。こちらに現在の思いを書いています。