前書きではかなりややこしいことを書いたのですが,簡単に言えばできるだけオープンにしていこうってことなんです.自分には結構思い入れがあることでも,それを他人に伝えないことには何もわかってもらえないですし,逆に自分ではたいしたことと思っていないことでも,外から見ると変に誤解されたりすることがあるからです.なので,まずはこの5年間関わっている「おかやまJAZZフェスティバル:OJF」のこれまでのことに関して,少しずつ書いていきます.
そもそもこのOJFは平成13年に企画されたものです.記念すべき第1回目のパンフレットの後書きで,当時の状況を僕が書いていますので以下に引用します.
#ドキュメント「岡山ジャズ・フェスティバル誕生」
平成13年 5月12日深夜,某所でH氏と偶然出会った.僕は何の気なしに話した.「岡山のストリートでジャズ・ライブをやりたいんだけど..」H氏は,「モントルーのように,岡山でジャズのフェスティバルができたらなあ」と話していた.アルコールのせいで気が大きくなったのか,夢のような話を夜もふけて語り合った.
それから約半年が過ぎた.年の瀬も近づいていたころ,H氏から突然電話があった.「あの話,やろうと思ってる.協力してくれないか?」
平成14年1月18日,うかぬ顔をした男たち4人が集まった.具体的なことは何も決まってないまっさらの状態だった.「岡山ジャズ・フェスティバル」という名称,そしてジャズばかりでなく様々な音楽が街角で出会うというコンセプトで「Music Crossroad」という副題をつけることになった.後に,これが第1回目の実行委員会ということになった.
1ヶ月後には,現在の主要な実行委員が顔をそろえるようになっていた.メインコンサートの出演者が決まり,野外ステージ,ストリートライブの企画も出た.様々な企画が本格的にスタートした.
ほどなくして,宣伝用のロゴ,ポスターを早急に作成する必要に迫られた.デザイナーのY氏がボランティアとして作成してくれることになった.Y氏からの紹介で野外ステージのデザインをF氏が作成してくれた.3月27日,我々は企画書とデザイン画を携えて中国銀行本店へと出向き,本店前広場に特設ステージをつくることに了解をもらった.
着々と準備が進むかと思われたが,企画から具体化という段階で色々な問題に直面した.予算的な問題,地元ミュージシャンとの調整,誰のためのフェスティバルなのか,本当に実現できるのか,6月10日のチケット発売を乗り越えてなお,実行委員会内には重苦しい雰囲気が漂っていた.
6月13日,実行委員長のO氏と相談した.現状を素直に認識すべきだ,しかし今が踏ん張りどころだと.翌日のミーティングでのO氏の説明に皆が奮い立った.メーリングリストで絶えず皆をつないでいたY氏,ストリート担当のA氏,パンフレット作成のFさん,経理担当のS氏,ストリーミング担当のIさん,前夜祭担当のK君,事務所詰めのKさん,そして数々の企業,市民の方々の協力に助けられ,再度歯車が前へと回り始めた.
そして8月9,10日,酒場で語り合った夢のような話がいよいよ現実のものへ..
この文章を今読み返すと,当時の思い出がありありと蘇ってきます.ちょっとイニシャルトークになってますが,全部実在の人物の話で決してフィクションではありません.ひとつ言えるのは,何もないところから一つのことを立ち上げるのには相当なエネルギーが必要で,今から考えるとあの時のあの状況で,なおかつあのメンバーであったからできたんだと思ってます.僕自身,OJF以前までは自分の個人的な音楽活動を行っていたのですが,その前後で活動を休止せざるを得なくなっていました.また仕事の面でも大きな壁にぶち当たっていました.自分の中に,はけ口のないエネルギーがたまっていたのだと思います.あの時期にOJFに参加していた人たちは,立場は異なるものの僕と同じようなエネルギーを持っており,そして何か新しいものを創りたいという欲求があったと思います.
昨年のOJF5のパンフレットにて前委員長のO氏と対談した記事を掲載しているのですが,その中でO氏は一番記憶に残っているコンサート・イベントはやはり第一回目(OJF1)だと言っています.我々のやりたかったことが不完全ながらも全てそこにあると思います.昨年のOJF5はこの5年間の総決算という意味合いが強かったのですが,今年のOJF6はOJF1で目指したものへの原点回帰がひとつのテーマになっています.